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2016.04.21 [教科書基本方針]
教科書編者からのメッセージ (中島国彦・渡部泰明)

実りある「言葉」の原石として 中島国彦


●教科書という「言葉」の原石

中島 国彦

 書棚の奥から、『高等国語 総合一』という臙脂色の布表紙の本を取り出してみる。わたくしが高等学校一年のときに使った、明治書院の国語の教科書だ。本文にカラーページなどはなく、いかにも素朴なたたずまいである。しかし、日本語や日本文学に興味を持ち、大学でそれを学び、しばらく高校の教壇に立つことになる原点が、その一冊にある。何度か引越しをしたが、この一冊は大切に持ってきている。「羅生門」「こころ」などが定番教材になる前だが、この文章は読んだ記憶がある、と懐かしいものも多い。

 それにしても、四月の新学期に手にする新しい教科書のインクの匂いの記憶は鮮明だ。一冊の本に「言葉」が詰め込まれていても、それは、教科書の手触り、開いたときの字面の印象、作家の顔写真や口絵、そうしたなまの体験を通して現実化され、実体のあるものとしてよみがえる。多くの人は、高校時代の教科書など保存しないだろうが、時として逆に、若き日に接した言葉の世界は、長く生き続ける。その後、理科系に行った人に出会った時など、「山月記」の重々しい書き出し、「檸檬」や「舞姫」の冒頭の切り込み方、「である」「する」や「内発的」といった概念を、今でも記憶し暗誦しているのを知り、驚いたことがある。

 教科書に潜んでいた原石が、長い時間かけて血肉化し、自然に磨き上げられて光り輝くのを見るのはうれしい。どう光り輝くかは人によって違うが、そこに「言葉」の持つ不思議な魅力があるのは確かだ。少しでもいい原石を、これからの世界を担う高校生に紹介したい――それを合言葉に、現場感覚の豊かな委員の方々と努力してきた。

●一冊に溶け合う明治書院の〈伝統と革新〉

 教科書は、一冊の書物でもある。今回の部分改訂を機に、書物としての「国語」教科書を、高校生の立場になって見直し、さまざまな工夫を試みた。新教材・関連教材も、いくつか加えた。余白の白い部分を極力なくし、「国語総合」では読書案内も付け、効果的な写真や図版を選び直した。せっかくのいい教材でも、盛り付けにこころが入っていないと、もったいない。子どもたちに届く最後の最後の時まで見つめ、知恵を出していこうというのである。

 「現代文」を通して世界と自分を見つめ直し、「古典」に描かれた先人の知恵に学び、「表現」を手がかりに自分を世界にぶつけていく――こうした〈世界との出会い〉〈自分との出会い〉の体験のお手伝いが教科書として出来ないか、ということを、わたくしたち編集委員は、常に考えて話し合ってきた。その拠りどころになったのが、創業一二〇年を迎えた明治書院の教科書づくりの経験である。わたくしなど、多くの定番教材を発掘してきた先輩の編集委員の先生方と交流しながら、明治書院の教科書の中に溶け合う〈伝統と革新〉をいつも感じながら過ごしてきた。教室という空間での、教材に対する教員の知的興味の姿、感動や喜びのほとばしりは、直ぐに高校生に伝わる。その盛り上がりをお手伝いできるような一冊こそ、あり得べき教科書だと信じている。

(早稲田大学教授 中島国彦)

 

なぜ古典を学ぶのか 渡部泰明


渡部泰明 東大教授

 古典を学ぶことにどういう意味があるのか。それを考える上で、張龍妹さんという中国人の日本文学研究者の言葉がとても参考になると思うので、ご紹介したい。それは、張さんが『源氏物語の救済』の著書で、関根賞という日本の学術賞を受賞した時のスピーチの言葉である。自分は社会主義国家で成長し、社会のために有用な人材にならなければという信念をもって大学を卒業し、会社勤めをしていた。その後思うところあって大学院で学び直すことを決意し、日本の古典文学を勉強し始めた。人の心を、深くかつ繊細に表現する『源氏物語』のような作品にこそ、論理に走りがちな中国人は学ぶ必要があると思ったからである、と言われたのである。張さんは、いま中国における日本文学研究を中心となって支えている方である。

 外国人に日本の古典を誉められて嬉しかった、と言いたいのではない。私はそのように言う張さんに、かえって中国人の深い知性を感じる。自分の国に自信がなければ、なかなかこうは言えないだろう。その自信は、中国文化の長い伝統によって培われたにちがいない。だからこそ、日本の文学への鋭い観察力も生まれたのだろう。日本と中国の文化の特質を理解し、自分のものとしているのである。 日本人は、昔から漢詩・漢文によって、多大の知恵を得てきた。それは日本人の教養の基盤を形成している。そしてその基盤の上に、日本人らしい固有の心を花開かせてきた。張龍妹さんの研究は、中国と日本の文化の融合を、高い水準で目の当たりに見せてくれているといえるだろう。

 唐突だが、子供と大人とはどこで区別されるか考えてみよう。色々な見方があるだろうが、私は、情理をわきまえることができるかどうかがその分かれ目だ、と思う。子供はしばしば感情のままに動く。また一方、大人顔負けの理屈を言うこともある。しかし、情と理をあわせもつ子供はまずいない。情理を尽くすといえば、感情と理性の両面に訴えかけることで、相手に心から納得してもらうことだ。こういうことができる人を、私たちは大人だなあ、と感じる。そして日本の古典の特徴の一つは、この情理をわきまえることを理想とするところにある、と言えるだろう。こまやかな感情をもっとも大切にしながら、たんなる理屈ではない、生きるための論理として鍛え上げられた文章なのである。張龍妹さんの言う通り、「心」をなにより大事にしているわけである。

 明治書院の教科書は、そうした情理を尽くした古典の文章を最大限に重視している。それらの文章は、遠い昔から、日本人の心を養い続けてきた。そうして現代の私たちの心の基本にもなっている。古典を学ぶこととは、情理を兼ね備えた文章を理解し、味わうことで、大人への階段を昇ることだといってよいだろう。大人とは、古典がしっかりと理解できる人間だ、とさえいえるのかもしれない。

(東京大学教授 渡部泰明)

  

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