明治書院の歴史
創業者三樹一平は明治12(1879)年に神奈川師範学校卒業後、小学校の教壇に立ち、間もなく郡役所書記となり、教育主任として教育行政に携わった。師範学校時代から教科書の不備や、新時代にふさわしい教材の不足を痛感していたので、新しい教科書づくりに意欲を燃やしていた。 明治26(1893)年35歳のとき、師範時代の校長で恩師の小林義則が経営する教科書出版の大手会社文学社に入社した。 明治30(1897)年、現在地の神田錦町1丁目に社屋を新築。教科書は新たに落合直文編『中等国語読本』を刊行し、『徒然草読本』など抄本教材や古典参考書類を充実させて、国文専門の営業基礎を固めた。『明星』の与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌風に強く惹かれていた石川啄木が、書院に一時籍をおいたのもこのころであった。 落合直文が42歳でこの世を去った後、精神的支柱になったのは森鴎外であった。当時、教科書は中学校用、女学校用、師範学校用を含めて、創立10年後の明治39年までに刊行点数は120点を数え、国漢の明治の定評を得ていた。 鴎外は落合の『中等国語読本』の改訂編集に着手し、明治44年『修訂中等国語読本』として落合直文・森鴎外・萩野由之の三人の名前で刊行した。この教科書は改訂・校訂・新訂と改訂編集されて大正10(1921)年まで刊行された。落合がこの世を去っても、なお約20年間使われた大ベストセラーであった。 |
教科書部門の拡大充実により社業の確立を得た明治書院は、さらに一段の飛躍をめざした。歴史関係の教科書編纂、英語の読本刊行など、国語漢文を軸としつつもその出版外延の拡大が図られた。また、一平は請われて中等教科書協会会長、東京出版協会会長などの要職につき、傍ら東京書籍常務取締役、日本製紙専務取締役なども兼任、業界の発展のために意を砕いた。 このように順風満帆で迎えた大正時代であったが、出版界は紙価の高騰という深刻な事態に見舞われ、一平は業界のとりまとめ役として東奔西走の日々となった。 大正12(1923)年9月、関東大震災が襲った。書院も社屋・倉庫を全焼し、二十七年余の集積は烏有に帰した。一平は教科書供給に支障があってはならないと大阪に直ちに出張所を設け、すぐさま再建にとりかかった。印刷・製本を済ませ無事供給を完了した。しかし、このときの過労がもとで倒れ、翌13年12月に65歳の多彩な生涯を閉じた。営業上は必死の努力が実って比較的早く立ち直ることができた。教科書は理科・数学・保健を加えた。 |
昭和6(1931)年創業三十周年、書院はひとつの隆盛期を迎えた。震災以来10年近い仮住まいをようやく解消し、神田錦町1丁目旧社屋跡に新社屋を完成。 昭和8年、徳富蘇峰の主宰する民友社を吸収、翌9年には高島米峰の経営する丙午出版社を買い取り、営業規模を大きくした。 『国語科学講座』『謡曲大観』、簡野道明の漢籍注釈書、そのほか古典評釈などで名著として後世に名を残したものにはこの時期の刊行が多い。 特に当時、沼田頼輔著『日本紋章学』が恩賜賞を受賞したことは、創業の志を貫いてきた一筋の道への励ましとなった。昭和19(1944)年3月、戦時企業整備令により、7社を合併して存続したが、出版活動はほとんど休止したような状態であった。 |
昭和20(1945)年、激しい空襲下、社屋は付近の住民の防空壕と化して終戦を迎えた。戦後の深刻な紙不足と制作費の高騰、インフレの嵐といった悪条件のもと、書院は苦しい経営を余儀なくされた。 |
昭和31(1956)年創業60周年に、『高等国語総合』ほか、国語科教科書の本格的刊行に漕ぎつけた。しかし、戦前得ていた声価は戦後に容易に結びつかず、一から出直す心組みで地道な努力を重ねなければならなかった。昭和30年代は、そのような雌伏の時代であり、『日本文法講座』『新釈漢文大系』『俳諧大辞典』『和歌文学大辞典』を始めとする各種辞典の編纂など今日への布石を、採算を度外視して打つことに専念した。 それは創業以来、国文学の土壌にしっかりと下ろした根の強靭 な生命力を示すものであった。 |
この後の特徴としては「世界の中の日本」の視点を持つ出版物と啓蒙的な新書等が増えたことである。「世界の日本文学」シリーズや新編集の『日本現代文学大事典』や『昭和文学年表』は世界文学との関連の多様な情報が盛り込まれ、雑誌『日本語学』も順調な歩みを見せてきた。 |
社章について
「日(八咫烏※)」と「月」の合字で、「明」の草書体をデザイン化したもの。 ※八咫烏は古来中国で太陽の象徴とされています。